先年亡くなった米原万里という作家、彼女は日露の通訳としても有名だったのだが、「漢字かな交じり文は日本の宝」と言っていたという。
どんな言語ペアの通訳でも、母語への通訳というのが一番楽なように思えるのだが、あらかじめ原稿が渡されるサイトラ、すなわちsight translation (黙読通訳)においては、日本語「から」通訳をするほうがずっとスムーズらしい。要するに、『時間単位当たり最も大量かつ容易に読解可能なのが日本語テキスト』ということらしいのだ。
たしかに、書店や図書館の書棚で本をさがすときも、英語の文献だとタイトルをいちいち読まないと書名がわからないが、日本語の場合は漢字の部分を拾うだけでだいたいわかるのでとても効率が良い。(そもそも英語は縦書きにできないというデメリットもあるので、なんとなく首をかしげて探すことになるのも面倒くさい)
そういえば昔読んだ本で似たような話があったことを思い出した。岩波新書の上下巻で出ている金田一春彦の「日本語」という名著。1988年に新書版が出版されたとき、「すごい本だよ」と勧められるがままに買っていたのだが、先日丸善で確認してみると、なんと60刷を重ねていた。
そんなことはともかく、この本の中で、日本語が読みやすいのはやはり漢字かな交じり文の効果のおかげ、という話と併せて、漢字の表意力についても素晴らしさを力説していた。
例を挙げると、「anthropology(人類学)」というのは、「anthropo」の部分がギリシア語の「人間」を意味しており、それを語源とする単語らしい。しかし英語圏の人でそれを知っているというのはかなり稀なことでもあるようで、普通の人に「anthropology」といってもあまり通じないらしい。ところが日本語で「人類学」と書くと、その内容詳細はともかくとして、とりあえず「人間という種について考える学問のことだな」というのは小学生でも見当がつく。
明治のはじめに膨大な洋語に触れた日本の学者たちが、漢字というツールを駆使して新しい単語をどんどん作ってくれたおかげで、「洋語を洋語のまま」勉強せざるを得なかった他のアジア諸国に比べて、ぼくたちはずいぶんと得をしているのだ。
・・・と、ここまでは昨日今日考えた話ではなく、以前から思っていたことでもある。ところが最近、ふとした事情で金融商品に関する本を読むことになり、漢字化の弊害ではないかと思うことが増えたのだ。
株や外貨の売買注文をし、未決済の状態であることを、英語風にいうと「ポジションを持つ」という。株価や為替レートの推移を示すチャートの中で、自分の注文がどの高さ(Y軸上のどの場所)にあるのか、というのはまさに「ポジション」でわかりやすい。しかし、これを日本語にすると「建玉」というのだ。(しかも、タテダマではなく、タテギョクという湯桶読みだ)。玉というのは宝石とかの意味もあるのでまるきりはずれた漢語ではないとは思うのだが、ここから「ポジション」を連想するのはかなり難しい。
さらに、注文に対して、どういう値段になったら決裁したいかというのは、これも英語風にいうとリミットとかストップという。「もうこれ以上利益を増やさなくてもいい。おなかいっぱい」というのがリミット、「これ以上損失を出したくない。ここで止めてくれ」というのがストップで、これまたわかりやすい。
ところがこれを日本語で言うと、「指値」「逆指値」という言い方になる。これはそもそも意味が違う。指値というのは「特定の一点」という意味だ。言い換えれば、その一点以外は上にずれても下にずれても「ハズレ」ということになる。しかしリミットというのはそうではなく、「許容範囲の限界」なので、上にずれるほうは別にハズレではなく、嬉しい話だ。
という、指値という変な単語をもとに、その反対側だから「逆指値」というイージーな単語が作られたのではないか?せっかくの漢字の表意力を無駄遣いしているとしか思えない。IT業界のように洋語のカタカナが氾濫するのも考えものだとは思うが、変な漢語訳をするくらいなら、カタカナ書きのほうが幾倍もマシだと思うのだ。