作品解説は不要と思う。英語読み?でヘッダガブラーとしても知られているようだ。
だいぶ以前に読んでぼんやりと記憶に残ってた作品で、縁あって田野聖子さん主演の俳優座の公演を観に行ったこともあり、聖子さんヘッダの鮮烈な姿を思い浮かべながら再度読み返してみた。
大雑把にいうと、登場人物は4人。美しいヘッダ。彼女が妥協して結婚した相手、学者のテスマン。テスマンの、学界でのライバルでもあり、昔ヘッダに想いを寄せていたレーヴボルグ。そしてレーヴボルグを献身的に愛しているテーア。しかしテーアには夫もいるという設定。とにかくそれぞれのキャラが激しく立っている。もちろんヘッダ以外は「ヘッダとの対峙」があってこそ初めて生きるのだが。
レーヴボルグとテーアの愛の絆ともいえる、彼の新作の原稿が偶然ヘッダの手元に転がり込んでくる。原稿を失くして絶望している2人を前にしながらそれを返してやろうとしないどころか密かに焼き捨ててしまい、レーヴボルグには「美しい死」を勧めてピストルまで貸すヘッダ。
表面的にとらえれば「悪魔のような女」以外の何物でもないだろう。実際、ノルウェーでの初演時には、「こんな化け物のような女がこの世にいるはずがない」などと散々な悪評だったらしい。
しかし、単に残酷な女という意味ではなく、ヘッダのような女性、ヘッダに近い女性というのは少ないながらも結構、この世にいるのではないか。いやも う少し正確に言うならば「ヘッダのような女性だった時期」があった女性は結構いるのではなかろうか。
大前提として、とても美しい。プライドが高く決して媚びない。行動が衝動的。全ての男は自分に媚びることはあっても、逆らったりするようなことは決してないと思い込んでいる女性。
また、ぼくの数少ない経験で断定を許してもらえば、この手の女性は「楽しい思い付き」や「イタズラ」が大好きなのだ。あらかじめ計算しての行動ではないので、その結果相手が具体的にどのくらい困るのか、影響はどのくらいあるのかなど考えもしない。「たぶん楽しいと思った」とか「ちょっと困った顔をみてみたい」という単純な動機が、ときに深刻な被害を招くこともあるからタチが悪い。
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見方によれば、そういう女性はとても純真だとも言えるので、可愛い女性なのかもしれない。気位の高い可愛いネコがそのまま人間になったようなものだ。包容力の極めて高い男であれば、こういった女性を「掌のなかで飼うように楽しむ」余裕もあるだろう。作品中で言えば、ブラック判事がその立ち位置か。
また、さらに大げさに考えれば、ヘッダはもはや「ヒト」ではなく「女神」であると考えることもできる。ヒトではないのだから、社会のルールという、人間界のくだらない規則には縛られない。信じられないくらいの僥倖をもたらしてくれることもあれば、残酷なまでの犠牲を強いられることもある。自分の全てを投げ出してでも彼女をミューズとして崇めたいという男には「信仰」の対象にもなりやすいだろう。
いずれにせよ、「2人で共に歩んで人生を作っていきたい」という、テスマンのような普通の男には不向きであることは間違いない。
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しかし、ヒトは老いるのだ。ミューズと崇められた女性がいつまでもその美を保っていくのは難しい。若いころには「可愛いイタズラ」と許してもらえたことが「非常識」と非難されることになる。本人もそれに気づき、これまで考えもしなかった「妥協」を考えるようになる。ヘッダとテスマンの結婚もまさにヘッダによる妥協の産物だったのだろう。
ただ、ある意味、テスマンがヘッダのことを「崇めていた」おかげで、ヘッダも中途半端なミューズであり続けていた。「もう自分は昔の自分ではあり続けられない」と自覚するほど生活が変わったわけではなく、かといって昔のような遊びもしにくい。そんな毎日が退屈すぎてどうしようもないと思っていたところに、あの原稿が転がり込んできたのだ。退屈な毎日の中に突然訪れた至上のハプニング。最高のイタズラを仕掛ける機会だ。レーヴボルグは彼女の思惑通りに「死」を選んだ。
・・・・・ところが事態は彼女が想像もしていない方向に進んで行ってしまう。学者としての見識はあるとはいえ、平凡で格下と思っていたテスマンが、これまた彼女から見れば平凡にしか見えないテーアと高尚な学術的な議論で意気投合しているではないか!ヘッダのことは綺麗なだけの幼稚な飾り物でもあるかのように扱って無関心になる。「下品な浮気がしたいんだったらさあどうぞ。興味ないから。」と言わんばかり。彼女の人生が変わった瞬間だ。
プライドの高い彼女は、衝動的に、ミューズのまま死を選ぶという悲劇になってしまうのだが、ぼくは彼女が死んだとき、実はまだ処女ではなかったのかと疑っている。。