(『江戸の川・東京の川』鈴木理生著より転載)
東京の人にとってはもしかしたら郷土史として子供の頃に知るような話なのかもしれないが、関西から移住してきたぼくにとっては、400年ほど前には東京都心が上図のような地形だったというのは結構新鮮な知見。
東京/江戸の古地図というのは、結構たくさん残ってるようで、古地図マニアという人も多いし、古地図に関する出版物も夥しい。なので、深入りしようと思えばいくらでも深入りできる世界のようなのだが、ちょっと面白いのは、徳川幕府開府より前の地図というのはほとんど残っていないこと。
「歴史」というのが「記録された事実」と考えるならば、大胆な言い方だが、江戸・東京の歴史というのはたかだか400年くらいといってもいいのではないか。
以前、まったく別の場所について似たような感想を抱いたことがあるのを思い出した。その場所というのはハワイ。ハワイ王国が成立するのは1815年にカメハメハ1世が全島統一に成功したことによるのだが、その時点では、「ハワイには文字が無かった」のだ。(外国語として持ち込まれた文字はあったはずだが)それが、統一直後から怒涛のように押し寄せてきた宣教師たちによってハワイ語のアルファベット表記が行われ、夥しい出版物が発行されて、ハワイ統一以前も含めたハワイの歴史が「書物」として残されて現代に至っている。要するに、ハワイの「歴史」はまだ200年くらいしかない。
話が逸れたが、わりと有名な「日比谷入江」ではあるものの、それを示している地図は、なんと1枚(別本慶長江戸図)しか現存していないのだ。それも途中で千切れてるし。あとは、さまざまな傍証によって、「日比谷入江があったのは確実」とされているのだそうだ。傍証とは、たとえば貝塚の分布とか、ボウリング調査とか色々あるようだが、大ざっぱには約6000年前の縄文海進(有楽町海進とも言うらしい)によって日比谷入江とか江戸前島の原型ができたらしい。当時は茗荷谷のあたりまで入江になっていたようだ。
6000年前から400年前まで、海面の後退もあって入江は縮小したが、さほど大きく変わったわけでもないように見える。江戸氏・葛西氏・豊島氏といった豪族が割拠していた時代も、当時の地形を変えるようなことはしなかったらしい。劇的な変化が訪れるのは家康・秀忠・家光の三代にわたって行われた『天下普請』によるもの。天下普請というと、江戸城の大型リニューアル工事が有名だが、神田山を掘削して平川の流路を変え、その土砂で日比谷入江を埋め立てるなど、後世に残る地形の大変化が僅か数十年の間に起きたのだ。某社のCMの「地図に残る仕事」どころではない、「地形を変える仕事」だ。
いまでも皇居の中に入ると(一般参観で入っただけだが)、江戸城の「高さ」を実感することができる。石垣を積んだことによる高さ、というだけでなく、「ああ、もともとここは台地だったのだ」とわかるような勾配が至るところにあるのだ。
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さらにその後の東京湾岸の変化もとても興味深いものだが、やはりぼくが魅かれるのは「地図が残る以前」の地形。江戸前島は、もともとは鎌倉円覚寺の所領であったとか、江戸郷の前島村では飢饉が続いて百姓がひとりもいなくなった、とかという記録もあるようだが、記録の少ない分、想像が入り込む余地のほうが大きい。ぼくの脳内では、江戸前島半島は土地は痩せているが砂州とか松のある、ある意味リゾート地っぽいイメージ。そして日比谷入江を隔てて江戸城のある側は海食崖で切り立ったイメージ。徳川幕府が鎖国などせず、「海の向こう」に目を向けていたら、もしかしたら、立地を生かした海洋王国になっていたかもしれない、などと。。。