開会式を最初から最後までテレビで観てしまった。そして色々考えさせられた。
演出の出来栄えを偉そうに論じるようなつもりは無い。コロナ禍という逆風の中、数々の制約のもとで一生懸命に開催準備を整えた関係者のかたたちには頭が下がる。
それに、演出や挨拶を抜きにしても、紛争当事国を含めた200以上の国や地域の人たちが一つの目的のために一堂に会するということ自体がすごく素敵だ。数が多いので入場だけで相当時間がかかったがまったく見飽きなかった。これは今回の東京に限らずどのオリンピックでも等しく同じ感想になるのだが。
だったら何の文句も無いじゃないかということになりそうだが、喉の奥に引っ掛かっているキーワードが、東京大会のコンセプトの1つでもある「多様性」だ。そしてオリンピック共通のモットー「Faster,Higher,Stronger」に「together」という、今回独自のワードが加わったあたり。
——————-
そもそもオリンピックというのは戦争の代償行為ではなかったか?
さらにいえば、スポーツという行為自体が、人間の持つ闘争本能を平和裏に昇華させるための手段では無かったっけ?
放っておけば暴力で相手を傷つける可能性のある人間をスポーツという行為の中で発散させる。放っておけば国家レベルで他国と殺し合いを始めてしまう国を、オリンピック競技の中での競争に留める。
なのでオリンピックとは本質的に「戦いの場」であり、そこには必ず勝者がいて、敗者がいる。本当の戦争と違うのは、戦いに負けたからといって命まで失うわけではなく、敗者にも「次の勝者になる可能性」が常にあるということだけだ。
オリンピックのそういう獰猛な本質と、「多様性の尊重」とか「together」という上品な考え方の間にはものすごい開きがあり、場合によっては矛盾することもあるのではないかというのが違和感の中心だ。
本当に多様性を尊重し、みんなで仲良くしたいのであれば国別のメダル競争なんかになるわけがない。参加者全員を無国籍扱いにして個人の成果を競えばいい。さらにいえば、個人間の格差もなくすのであれば、そもそも競争すること自体がおかしい。順位を付けず、タイムや完成度などをある程度定量的に採点すれば良いだけだ。100mを10秒以内で走った選手を全員顕彰するという感じ。
でも、それではオリンピックは全く盛り上がらないだろう。そういうことに資金を提供しようという組織も稀だろう。「個人の事なんだったら、個人で勝手にやってくれ」ということになるのは当然だ。
————–
とにかく世界中の人も国も「多様性」とか「together」とかを口ずさみながらも、競争したくてしようがないのだ。だから国の威信をかけて選手を支援し、その成果発表の場としてオリンピックは盛り上がる。
ドーピングは禁止されているが、国が威信をかけて参加している以上、「合法的なドーピング」は存在する。豊かな国と貧しい国では、選手に与えられる練習環境には天と地ほどの格差がある。環境の差をはねのけるような素晴らしい才能というのもあるのかもしれないが、環境格差があるのは厳然たる事実だ。
だからアスリートにも貧富の差があり、体格の差があり、美醜の差だってある。才能や努力だけでなく、その差をも存分に活かして「強者が弱者に勝つ」のがオリンピックだ。
要するに、オリンピックとは本来「残酷なもの」のはずなのだ。まあ、オリンピックに限らず、受験戦争とか販売競争とか、「競争」と名の付くものはすべてそうなるのだが。
その残酷さをどうしても認めようとしない偏狭なクレーマーたちへの悲しい対策として「多様性」とか「together」という妙な言葉が出て来たのではないだろうか?と、ぼくは疑っている。
似たような違和感を抱いたのは、昔、「小学校の通知簿で5段階評価が無くなった」という話を聞いた時だ。高校受験や大学受験のときには容赦なく順位付けされるのに、小学校の間だけ「差別をなくす」ことに一体何の意味があるのか?
————-
「見かけの平等に執拗にこだわるクレーマー」がオリンピック全体を支配するようになればもはやオリンピックは戦争の代償行為にはならない。結果として本当の戦争が起きてしまうことにつながる可能性もあるのではないか。
「順位付けは醜いことだ」と教えられた小学生が、中学高校になって容赦なく順位付けされてショックを受け、「大人は信じられない」とグレてしまわなければいいのだが。