めぐり逢わせのお弁当(2013:インド・仏英合作映画)

いわゆるボリウッド系の騒々しいインド映画とはまったく違う、ヨーロッパ映画のようなテイストのインド映画。英語の原題は「The Lunchbox」。監督はリテーシュ・バトラー 主演:イルファーン・カーン。

驚異的な正確さを誇る、インドのお弁当配達システム「ダッバーワーラー」。600万個に1個くらいしか誤配が起きないらしいのだが、たまたま起きてしまった誤配から始まるせつない物語。勤続35年、そろそろ早期退職を考えている壮年のサージャンのもとに、自分にほとんど関心をもたなくなった夫に不満を持つイラの作ったお弁当が届いてしまう。イラは30歳くらいの想定か。

「無関心」というのはタチが悪い。「こんなマズイ弁当を作るな!」などといって喧嘩をしている間(そんなシーンは無いが)は、夫婦関係はギクシャクすることはあっても冷えることはない。しかしイラの夫は「無関心」なのだ。これはいけない。表面上は喧嘩はないかもしれないが、夫婦関係の土台の部分を壊していく。

夫に不満を持つ妻というのは、日本にもインドにも無数にいることだろう。しかし、たいていの人は与えられた環境から抜け出すことの面倒さも知っていて、積極的に現状を変えようとまで思う人は少ない。そんな中、イラは数少ない、「恋愛に積極的な」性格なのだと思う。そして、彼女が幸福な人生を歩むには、夫も恋愛に積極的でなくてはバランスが取れないのだ。

それでもイラは、弁当をいつも食べ残してしまう夫のために、弁当にくふうをこらしていた。(インドの女性の仕事のかなりの部分は弁当作りに割かれているのだろうか)

ところがそんなある日、完食され、からっぽになった弁当箱が戻ってくる。やっと気持ちが通じたのかと喜ぶイラ。・・・・・しかし、完食してくれたのは、600万分の1の確率で誤配された先のサージャンだったのだ。

物語の始まりが「完食」という点で、すでにイラからサージャンへの好意の下ごしらえができている。誤配の上に食べ残されたら身もフタも無かったはずだ。とにかく、この誤配の完食をきっかけに、弁当箱を通信手段とした奇妙な文通が始まることになる。どちらかというと、イラが発信し、サージャンが返信するという、イラのほうが積極的なパターン。

最初は「面白い人」くらいに思っていたサージャンに、イラは徐々に魅かれていくようになる。「私たちは実際に遭うべきだ」と提案を持ちかけるイラ。彼女はやはり積極的なようだ。

そんなある日、イラは夫の脱ぎ捨てた服への移り香から夫の浮気を疑ってしまう。夫が彼女に無関心なだけで、朝から晩まで仕事で疲れているのなら、無関心だけを理由に他の男に走るのは、人としての道に反するかもしれない。しかし「夫への義理立てはもう不要」と思える根拠もできたのだ。

ただ、イラは少しズルイと思う。彼女のような積極的な性格であれば、普通は、まず夫を問いただすのではないか。しかし彼女は敢えて訊こうとしない。「浮気が確定するのが怖いから」とサージャンに書き送っているが、ぼくはそうではないと思う。「実は浮気ではなかった」場合が怖いのだ。浮気でなかった場合、サージャンへの思いはかなりうしろめたいものになってしまう。敢えて訊かずに、「夫もすでに浮気している」と思い込むことで、彼女は自分を鼓舞しているような気がしてならない。

いっぽう、サージャンのほうは、イラとの恋愛を喜びながらも控えめだ。それでも同僚に、妻に先立たれていることを同情されたとき、「でも恋人はいるよ」と、つい言ってしまうサージャン。嬉しかったのだろう。しかしイラから「一度遭おう」と提案されて、朝から気合を入れて準備しながらも、自分の老いた容姿に改めて気づき、約束の店に入って彼女の姿を認めながらも、声をかける勇気が出なかったサージャン。大変にせつない。

結局、サージャンはイラのことを諦めるという決断をし、一度はイラのために撤回していた早期退職をやはり実行することにして職場を去り(イラが子供を連れて職場まで訪ねてきたのはまさにその直後だ)、隠居先のナーシクという町に移住する決意を固める。

ところが、最後が有名なシーン。一度はナーシクに行ったサージャンが、やはり思い直してムンバイの元いた家に戻ってくるのだ。戻ってくるだけではない。なんとダッバーワーラー(弁当配達人)たちと一緒に弁当の返却ルートまで辿ろうとしている積極さ!

その頃、イラのほうもある決意を固めていた。既婚者を示す装身具を売り払い、サージャンとの楽しい会話で出てきたブータンを目指そうというのだ。もちろんサージャンがどこにいるのかは知らない。そもそもブータンにいるのかどうかもわからない。しかしサージャンから教えてもらった、「ブータンに行けば、間違った列車に乗っても正しい目的地に着く」という言葉が彼女を支えているようだ。

映画はここで終わる。イラがブータンに出発するよりも前に、サージャンがイラの家に辿りつけたのかどうか、その後2人がどうなったかは観客の想像にお任せ、ということだろう。私はサージャンに感情移入しながら見ていたので、2人は無事に出会えて、幸せな第2の人生を送ったと信じたい。

—-
後日調べた話。

サージャンが最後にダッバーワーラー達と行動を共にしていた時、彼らはみんなで聖トゥカラームと聖ドゥニャノバーを讃える歌を歌っていた。この2人の聖人はヒンドゥー教(ヴィシュヌ教)では有名な人たちのようで、トゥカラーム(Tukaram)とドゥニャノバー(デャーネーシュワル:Dnyaneshwar)はwikipediaもあって、どうやらそれぞれ、「結婚などという世俗的な幸福を超越した幸福。孤独な求道者ではなく、高い次元の愛」を説いていたようだ。

と、いうことは・・・サージャンとイラは、泥沼の不倫などとは無関係の、美しい愛で結びつく、ということではないだろうか。期待し過ぎか。

ヘッダ・ガーブレル(イプセン)

作品解説は不要と思う。英語読み?でヘッダガブラーとしても知られているようだ。
だいぶ以前に読んでぼんやりと記憶に残ってた作品で、縁あって田野聖子さん主演の俳優座の公演を観に行ったこともあり、聖子さんヘッダの鮮烈な姿を思い浮かべながら再度読み返してみた。

大雑把にいうと、登場人物は4人。美しいヘッダ。彼女が妥協して結婚した相手、学者のテスマン。テスマンの、学界でのライバルでもあり、昔ヘッダに想いを寄せていたレーヴボルグ。そしてレーヴボルグを献身的に愛しているテーア。しかしテーアには夫もいるという設定。とにかくそれぞれのキャラが激しく立っている。もちろんヘッダ以外は「ヘッダとの対峙」があってこそ初めて生きるのだが。

レーヴボルグとテーアの愛の絆ともいえる、彼の新作の原稿が偶然ヘッダの手元に転がり込んでくる。原稿を失くして絶望している2人を前にしながらそれを返してやろうとしないどころか密かに焼き捨ててしまい、レーヴボルグには「美しい死」を勧めてピストルまで貸すヘッダ。
表面的にとらえれば「悪魔のような女」以外の何物でもないだろう。実際、ノルウェーでの初演時には、「こんな化け物のような女がこの世にいるはずがない」などと散々な悪評だったらしい。

しかし、単に残酷な女という意味ではなく、ヘッダのような女性、ヘッダに近い女性というのは少ないながらも結構、この世にいるのではないか。いやも う少し正確に言うならば「ヘッダのような女性だった時期」があった女性は結構いるのではなかろうか。
大前提として、とても美しい。プライドが高く決して媚びない。行動が衝動的。全ての男は自分に媚びることはあっても、逆らったりするようなことは決してないと思い込んでいる女性。

また、ぼくの数少ない経験で断定を許してもらえば、この手の女性は「楽しい思い付き」や「イタズラ」が大好きなのだ。あらかじめ計算しての行動ではないので、その結果相手が具体的にどのくらい困るのか、影響はどのくらいあるのかなど考えもしない。「たぶん楽しいと思った」とか「ちょっと困った顔をみてみたい」という単純な動機が、ときに深刻な被害を招くこともあるからタチが悪い。

—–

見方によれば、そういう女性はとても純真だとも言えるので、可愛い女性なのかもしれない。気位の高い可愛いネコがそのまま人間になったようなものだ。包容力の極めて高い男であれば、こういった女性を「掌のなかで飼うように楽しむ」余裕もあるだろう。作品中で言えば、ブラック判事がその立ち位置か。

また、さらに大げさに考えれば、ヘッダはもはや「ヒト」ではなく「女神」であると考えることもできる。ヒトではないのだから、社会のルールという、人間界のくだらない規則には縛られない。信じられないくらいの僥倖をもたらしてくれることもあれば、残酷なまでの犠牲を強いられることもある。自分の全てを投げ出してでも彼女をミューズとして崇めたいという男には「信仰」の対象にもなりやすいだろう。

いずれにせよ、「2人で共に歩んで人生を作っていきたい」という、テスマンのような普通の男には不向きであることは間違いない。

—–

しかし、ヒトは老いるのだ。ミューズと崇められた女性がいつまでもその美を保っていくのは難しい。若いころには「可愛いイタズラ」と許してもらえたことが「非常識」と非難されることになる。本人もそれに気づき、これまで考えもしなかった「妥協」を考えるようになる。ヘッダとテスマンの結婚もまさにヘッダによる妥協の産物だったのだろう。

ただ、ある意味、テスマンがヘッダのことを「崇めていた」おかげで、ヘッダも中途半端なミューズであり続けていた。「もう自分は昔の自分ではあり続けられない」と自覚するほど生活が変わったわけではなく、かといって昔のような遊びもしにくい。そんな毎日が退屈すぎてどうしようもないと思っていたところに、あの原稿が転がり込んできたのだ。退屈な毎日の中に突然訪れた至上のハプニング。最高のイタズラを仕掛ける機会だ。レーヴボルグは彼女の思惑通りに「死」を選んだ。

・・・・・ところが事態は彼女が想像もしていない方向に進んで行ってしまう。学者としての見識はあるとはいえ、平凡で格下と思っていたテスマンが、これまた彼女から見れば平凡にしか見えないテーアと高尚な学術的な議論で意気投合しているではないか!ヘッダのことは綺麗なだけの幼稚な飾り物でもあるかのように扱って無関心になる。「下品な浮気がしたいんだったらさあどうぞ。興味ないから。」と言わんばかり。彼女の人生が変わった瞬間だ。

プライドの高い彼女は、衝動的に、ミューズのまま死を選ぶという悲劇になってしまうのだが、ぼくは彼女が死んだとき、実はまだ処女ではなかったのかと疑っている。。

アドラーと禅

われながら、タイトルがちょっと壮大過ぎるとは思うけれど、なんとなく気になったことがあったので書き留めてみようかと思った。思想全体の比較というような大仰なものではなくて、似ているところがあるのかな、と思ったまで。

ちょっとだけ素人解説すると、アドラーという人は、ヨーロッパではフロイト、ユングと並ぶ三大心理学者とされており、最近日本でも岸見一郎氏の「嫌われる勇気」「幸福になる勇気」がベストセラーになったこともあって、ちょっと知られるようになった。アドラー心理学は「思想」ともいえるものを持っているため、「それはサイエンスではない。宗教だ」と嫌う人もいるようだが、思想を持つが故のとても実践的な考え方が、ぼくにはすごく受け入れやすかった。

禅については、聞いたことが無いという人はいないだろうが、日本での禅というのは中国の宋の時代に移入されたもので、やや観念主義的で虚無思想的なイメージもあるが、達磨大師が伝えた時代や、少し下って唐の時代の頃の禅というのはもう少し柔軟なものでもあったようだ。

実は大学で禅を研究している友人がいて、禅問答を理解するには口語を深く理解する必要があるという動機で中国語まで堪能になってしまった男なのだが、彼が先日TVで禅について語っているのを観ながら、なんとなくアドラーを彷彿してしまった、というのがこの文章を書いているきっかけ。
——-
アドラー心理学の用語で「自己受容」と「自己肯定」という、一見すると違いがわかりにくいが、まったく意味の違う言葉がある。大雑把にいうと、自己肯定というのは、何も反省が無い状態の自分をそのまま認めてしまうこと。何か失敗があっても「本当の私はもっとできる人間なんだ、違う人間なんだ」と自分をだまして心を軽くしてしまうこと。それに対して自己受容というのは少し残酷で、「できない自分、我ながら恥ずかしい自分を認める」ということで、自己受容を行なえて初めて、勇気を出して自分を変えて行ける。(らしい)。

いっぽう、禅の基本的な考え方は「積極的に外から情報を取り入れ、勉強して悟りを開くことで仏になる」のではなく、「仏性は本来自分の中にある。内側にある余計なものを取り去るだけで仏になれる」ということ。(らしい)。

で、おそらく「なんだ、取り去るだけでいいのか。そうか俺はそもそも仏だったんだ」と満足してしまうのがアドラーでいうところの自己肯定。禅の用語だと野狐禅ともいうらしい。そうでなく、自分がどれだけ余計な衣をつけていたのかを認識し、もはや肉体の一部にまでなりかけていた衣を血を流しながら1枚1枚はがしていくのが自己受容のステップということなのではないか。

「衣」をアドラー的に表現すると、「他者の目(他人からどう見えるか)」「向上心という名の優越コンプレックス」「逃避の言い訳としての劣等コンプレックス」なんかが相当するのだろう。

——–
もう1つ、似てるのかなと思ったのが、アドラー心理学のカウンセラーのアプローチと、禅問答における師の返答。アドラーのカウンセラーに相談しても、カウンセラーは決して「貴方はこうすべきです」とは言わない。(らしい)。
なにしろアドラー心理学は「個人心理学」と言われるように、万人共通の答があるわけではない。人によって、身に着けている衣はまったく違うし、衣を捨て去った後に見えてくる自分も個々それぞれだ。なので、カウンセラーは、アドラーの考え方を伝えながらクライアントに寄り添って「一緒に考える」、岸見一郎氏の言葉でいえば、「馬を水場に連れて行く」ことはできるが、答えを出し、水を飲むかどうかは完全にクライアント次第。(らしい)。

禅問答でも、師のほうは答えがわかっているのなら、もうちょっと明確に答えてあげればいいじゃないかというものばかりだ。
「如何なるか是れ祖師西来意(禅の本質は何ですか)」「麻三斤(着物1着の布)」みたいな。要するに、答を教えてもらっては意味が無い、自ら納得して「ああ、そうか」と気づかないといけない。ということなのだろう。

僅か一時間ほどの番組だったが、ぼくにとっては少し刺激的だったかもしれない。

神去なあなあ日常

三浦しをん、徳間文庫/徳間書店

三浦しをんの作品は、「舟を編む」とか「まほろ駅前」シリーズとかいくつかは読んだり観たりしていた。それぞれストーリーも面白いし、描写もうまいし、映像のほうでは『変な男』を演じると松田龍平の横に出るものはいないのではないか、など妙な感想も持ちつつ、しかし『2回以上観たり読んだりできる作品リスト』には入れていなかった。

それは作品の完成度の優劣ということではなく(そもそも優劣を見極められるほどぼくの目は肥えてはいない)、「徒歩圏内の世界で起きる、奥行きの深い出来事を巧みに描く」という、ある種の「狭さ感」が、ぼくにとって少しだけ抵抗があったのだと思う。

そして「神去なあなあ」。存在は以前から知っていたが、これも好き嫌いでいえば「たぶん、やや好き」くらいの本なんだろうと、なかなか手に取らずにいた。が、今回映画化されるにあたって、それまでの文庫に映画用のカバーが重ねられ、染谷将太が巨大な杉の木の上で怯んでいる写真が貼られたところで、つい手に取って買ってしまったのだ。(何故かぼくは巨木に心魅かれるところがある)

で、読んでみて、これまで手に取らなかったことを大後悔した。「ものすごく好き」レベルの本だったのだ。慌てて続編の「神去なあなあ夜話」も買いに走ったのは言うまでもない。

とにかく世界観が広いのだ。もちろん、登場するのは三重県山奥の神去村という大変に狭い世界で、読みようによってはこれもまた窮屈な世界での出来事なのだが、他の作品と大きく異なるように思えるのは、神去村というのは「どんづまり」の狭い世界ではなく、なんと、神や獣や鳥たちが暮らす「向こう側の世界」と接している村だったのだ。・・と書くと堀川アサコの幻想シリーズのようなファンタジーに思えるかもしれないが、そこまで露骨に接しているわけではなく、ごく自然なかたちで人々と神が共存していた昔の世界がほどよく残っているという、あくまでも実在していておかしくない村の話。

村の人たちが敬っている「オオヤマヅミ」さんという神、これはまちがいなく大山祗のことだと思うが、古事記にも登場するオオヤマヅミの2人の娘(美しいコノハナサクヤ姫と、そうではない姉のイワナガ姫)まで姿を現して主人公の命を2度も救ってくれる。飼い犬のノコは完全に人語を解しているようだし、三郎じいさんの観天望気はもはや霊能力者と言ってよいレベル。

主人公もしばしば「日本昔話かよ!」という科白を口にするが、まさにそのとおり。おそらくそんなに昔ではなく、百年とか二百年前の日本には至る所に神去村があったのだろうな、と思う。また、さらに遡れば、出雲大社の本殿建造に使われたような樹齢数千年というような巨木もたくさんあったのだろう。

———
と書いたものの、おそらく一般的には、この本の価値はそんなところにあるのではなく、『林業』という、100年単位でものを考える圧倒的な世界を、どこにでもいそうな青年の経験を通じてとてもわかりやすく魅力的に紹介しているところとか、登場する人たちのキャラがどれもビシビシと立っていて感情移入しやすく、読みながら姿が目に浮かぶ、などの人物描写力にあるのだとは思う。女の人たちがなぜかみんな美人というのもうまい設定。

しかしぼくとしては、やはり「神と共存できていた時代の描写」に心魅かれてしまう。ある意味、池澤夏樹の「南の島のティオ」にも匹敵するくらいだ。(わかりにくいとは思うが、ぼくとしては最上級の褒め言葉)

※神と共存しているのにどうして「神去」村なのか、というのは、夜話のほうで明らかになる。これまた素敵な話だ。それを語る繁ばあちゃんによれば「ちょっとあだるとな話」だが(笑)

銀河英雄伝説

田中芳樹のSFファンタジーで、最初に世に出た徳間ノベルズで全10巻+外伝4巻という長編の小説。アニメ化もされているので、そちらのほうで作品に触れた人も多いかもしれない。

大ざっぱにいうと、銀河系を舞台にして新しい時代が誕生するまでを描いた壮大な物語で、人によっては三国志や史記、プルタークの英雄伝などを彷彿する人もいると思う。

設定にかなりの無理や無茶があるなどという批判的な見方もできるかもしれないし、逆に、特にアニメ版のほうではキャラクタが綺麗だとかBGM(大半がマーラーやワグナーなどドイツ系のクラシック曲が多い)が素晴らしいというようなファンも多いようだ。

で、ぼく自身はどうかというと、それらの設定とはまるで無関係にこういった小説が結構好きなのだ。ひとことでいうと、「神話の時代」が好きなのかもしれない。

「神話の時代」というのは何か?天岩戸に閉じこもった天照大神をアメノウヅメの踊りで気を引いて・・というような話がいわゆる神話で、それも嫌いではないのだが、ぼくの頭の中では神話の定義ははっきりしていて、『ルールを作った時代』が神話で、『ルールができたあとの時代』が歴史だ。

なので、必ずしも太古の昔でなくても神話がある。幕末の頃、倒幕か佐幕か、味方にするのはイギリスかフランスか、など、「日本のルールが決められようとしていた」頃はまさしく神話のイメージだ。さらに下って、巨大なパナソニックグループ。その沿革は歴史みたいなものだが、創業者の松下幸之助が町工場で電球ソケットを作りながら、後の松下電器をイメージしていた頃が(ぼく的には)やはり神話なのだ。

—-
おそらくぼくだけではないと思うが、現代の世界で暮らしている人たちが持っている閉塞感というのは、『現状を維持するために必要なルール』で縛られていることから来ているのだと思う。受験勉強や就職活動や会社勤務にせよ、家族を養ったり税金を払うことにせよ、毎日意識しているかどうかはともかく、ぼくたちは見えない縄でがんじがらめにされているわけだ。

もちろん、ある程度ルールに縛られていたほうが気楽で良いという考え方もある。ひょっとすると人類の大半はそうなのかもしれない。ぼくだって「閉塞感」とか書きながら、今この瞬間に社会のルールが全て無くなったら1日以上生きていられるかどうか自信は無い。

だからこそなおのこと、「ルールの無い世界で、ルールの外側からルールを作った人たち」に対して憧れることになり、また、今後決して遭遇しないだろうと思われる神話の時代を羨ましく思うのだろう。

・・・ぼく自身は数年前に長いこと勤務していた会社を辞めて独立した。ある意味で社会のルールの一定部分を無視できる立場になったわけだ。もちろん逆に自分を律するためのマイルールを確立しないといけないわけだが。ただ最近、そんなマイルールに少し倦んできたからこんなことを書いてるのかな。

ヒトラー最期の12日間

2004年の映画で実は今まで観ていなかったのをたまたまHuluで見つけて観てみた。ヒトラーが腹を立てるシーンは夥しい数のパロディ動画が動画サイトにUPされていてそちらは散々目にしていたのだが、そういえば本編を観たことがなかったということに今さら気が付いたわけだ。

ナチスのHQに視点を据えた映画だが、積極的にナチスを批判する作品ではなく、もちろん擁護しているわけでもなく、敢えて言えば「独裁者の悲しい末路」の姿を細かく描きたかったのかなとも思うが、ぼくは別に作品批評を書きたいわけではない。

シーンの大半が地下司令部の中でもあり、屋外のシーンもそのほとんどが砲弾飛び交い、土煙が舞い上がるシーンばかりだったせいもあるのだろうが、最後のあたりで少しだけ出てくる青空と廃墟のシーンが、たまらなく美しく思えたのだ。青空といっても澄み渡るような空ではなく、廃墟といっても石造の構造物の跡が多少並んでいる程度で、客観的に見ると「何の変哲もないシーン」かもしれない。

どうしてそんな光景が美しいと思えるんだろう?と、映画そっちのけで思考がそっちに向いてしまった。

どうやら鍵は「石」という点にありそうだ。自然のままの石ではいけない。一度人間の手が入って何らかの加工がなされた石だ。どうもそれらの石には、人間の手を経ながら人間を超越した何かがあるような気がするのだ。

——
どこで見たのかはすっかり忘れてしまったが、同じ第2次大戦後、爆撃などでボロボロになったワルシャワの石畳の舗装道路を、生き残った人々が1枚1枚、手で修復しているというモノクロ映像のシーンを覚えている。そしてその光景に、ベートーベンの第7交響曲の第2楽章が何故か重なって想起されてしまう。

第7は、「愛と哀しみのボレロ」で印象が強い第4楽章など、スピーディでリズミカルな、流れるような印象が強いと思うが、第2楽章だけは別だ。とはいえ、これも最近の速いテンポの演奏だと他の楽章と大して印象が変わらないかもしれない。昔懐かしいワルターや、さらに遡ってモノラル録音の時代のフルトヴェングラーなどのゆったりとした演奏での印象が上記の映像に激しくマッチするのだ。バイオリンの和音がまるで人々の慟哭のように聞こえてくる。

戦争という、夥しい人々の慟哭を生じさせる悲劇を超えて前に進まざるを得ないという運命、あるいは進めるのではないかという希望が、石畳や、人の作った石造物には宿っているという気がする。仏像にしても、木像や塑像よりも、石像に魅かれてしまうというのも、そのせいかもしれない。

—–
・・・と、あくまでもぼくの主観中の主観がどんどん想起されてしまったという変な体験ができた映画だった。まあ、共感する人はいないかな。

宇宙じんをつかまえた!(かな?)

なかなかまとまった雨が降らないなと思っていたが、先日(4月3日)やっと大雨となったおかげで、2リットルの収集瓶が2本とも満タンになってしまった。

雨水は透明だが、瓶の底には粉塵だか何だかわからない黒っぽいものが少し溜まっている。この季節なので、2本の瓶それぞれに桜の花びらが1枚ずつ入っていたのはご愛嬌。

さっそく回収して、コーヒー用のペーパーフィルターでろ過してみた。しかし、透明なように見えた雨水だが、相当に不純物を含んでいたようで、最初の1リットルくらいはぐんぐん濾過していったが、最後のほうは水がなかなかフィルターを通ってくれない。ひと瓶ごとにフィルターを変えはしたが、結局2時間近くかかってしまった。ちょっと予想外。

ドライヤーで乾かすと、乾いた沈殿物が飛んで行ってしまいそうなので、室内に放置して丸1日乾燥。そして本日ようやく、マイクロスコープでの観察と相成ったのだ。

事務所の目の前が「さくら通り」という桜並木なので、花びらだけでなく、おそらく桜の木に由来するさまざまなもの、微小な枝とか花粉とか木の皮の残骸とかがいっぱいあったが、探し回ること5分、やっと光沢のある丸い物を発見した!

添付の画像がその丸い物。倍率200倍。それをモニタいっぱいに映した画面のごく一部を切り取った画像なので、ピンボケになってしまっているのも致し方無し。それに、おそらく明らかに球形(要するに立体)だからだとは思うが、球全体にピントを合わせるのが難しいのだ。

まあとにかく、下記の画像がその正体。大きさは推定0.1ミリくらいで肉眼ではちょっとキビシイ大きさ。この丸さと光沢は宇宙塵に間違いないと思うのだが、どうだろうか。

meteo

漢字の威力と無駄遣い

先年亡くなった米原万里という作家、彼女は日露の通訳としても有名だったのだが、「漢字かな交じり文は日本の宝」と言っていたという。

どんな言語ペアの通訳でも、母語への通訳というのが一番楽なように思えるのだが、あらかじめ原稿が渡されるサイトラ、すなわちsight translation (黙読通訳)においては、日本語「から」通訳をするほうがずっとスムーズらしい。要するに、『時間単位当たり最も大量かつ容易に読解可能なのが日本語テキスト』ということらしいのだ。

たしかに、書店や図書館の書棚で本をさがすときも、英語の文献だとタイトルをいちいち読まないと書名がわからないが、日本語の場合は漢字の部分を拾うだけでだいたいわかるのでとても効率が良い。(そもそも英語は縦書きにできないというデメリットもあるので、なんとなく首をかしげて探すことになるのも面倒くさい)

そういえば昔読んだ本で似たような話があったことを思い出した。岩波新書の上下巻で出ている金田一春彦の「日本語」という名著。1988年に新書版が出版されたとき、「すごい本だよ」と勧められるがままに買っていたのだが、先日丸善で確認してみると、なんと60刷を重ねていた。

そんなことはともかく、この本の中で、日本語が読みやすいのはやはり漢字かな交じり文の効果のおかげ、という話と併せて、漢字の表意力についても素晴らしさを力説していた。
例を挙げると、「anthropology(人類学)」というのは、「anthropo」の部分がギリシア語の「人間」を意味しており、それを語源とする単語らしい。しかし英語圏の人でそれを知っているというのはかなり稀なことでもあるようで、普通の人に「anthropology」といってもあまり通じないらしい。ところが日本語で「人類学」と書くと、その内容詳細はともかくとして、とりあえず「人間という種について考える学問のことだな」というのは小学生でも見当がつく。

明治のはじめに膨大な洋語に触れた日本の学者たちが、漢字というツールを駆使して新しい単語をどんどん作ってくれたおかげで、「洋語を洋語のまま」勉強せざるを得なかった他のアジア諸国に比べて、ぼくたちはずいぶんと得をしているのだ。

・・・と、ここまでは昨日今日考えた話ではなく、以前から思っていたことでもある。ところが最近、ふとした事情で金融商品に関する本を読むことになり、漢字化の弊害ではないかと思うことが増えたのだ。

株や外貨の売買注文をし、未決済の状態であることを、英語風にいうと「ポジションを持つ」という。株価や為替レートの推移を示すチャートの中で、自分の注文がどの高さ(Y軸上のどの場所)にあるのか、というのはまさに「ポジション」でわかりやすい。しかし、これを日本語にすると「建玉」というのだ。(しかも、タテダマではなく、タテギョクという湯桶読みだ)。玉というのは宝石とかの意味もあるのでまるきりはずれた漢語ではないとは思うのだが、ここから「ポジション」を連想するのはかなり難しい。

さらに、注文に対して、どういう値段になったら決裁したいかというのは、これも英語風にいうとリミットとかストップという。「もうこれ以上利益を増やさなくてもいい。おなかいっぱい」というのがリミット、「これ以上損失を出したくない。ここで止めてくれ」というのがストップで、これまたわかりやすい。

ところがこれを日本語で言うと、「指値」「逆指値」という言い方になる。これはそもそも意味が違う。指値というのは「特定の一点」という意味だ。言い換えれば、その一点以外は上にずれても下にずれても「ハズレ」ということになる。しかしリミットというのはそうではなく、「許容範囲の限界」なので、上にずれるほうは別にハズレではなく、嬉しい話だ。

という、指値という変な単語をもとに、その反対側だから「逆指値」というイージーな単語が作られたのではないか?せっかくの漢字の表意力を無駄遣いしているとしか思えない。IT業界のように洋語のカタカナが氾濫するのも考えものだとは思うが、変な漢語訳をするくらいなら、カタカナ書きのほうが幾倍もマシだと思うのだ。

ハワイと柿本人麻呂

HAPAという、ハワイアンミュージックの有名なユニットがいる。1983年、アメリカ東海岸出身のバリー・フラナガンと、地元ハワイのケリイ・カネアリイの2人組でスタートし、ファーストアルバムの「HAPA」は何と250万枚のセールスを記録したという。(ちなみにハワイ州の総人口は120万人ほど)。その後ケリイに代わってネイザン・アヴェアウ(マウイ王カヘキリの子孫らしい!)、さらに変わってロン・クアラアウへと引き継がれたが、今でも根強い人気があるユニットだ。

ちなみに、hapaというのはハワイ語で、英語の「half」が由来のようだが、必ずしも「半分」という意味では無く、「部分的」とか、「混血」という意味になるらしい。(Pukui,ElbertのHawaiian Dictionaryより)

能書きはともかくとして、とにかく美しく、かつ口ずさみやすい、とてもいい曲が多いのだ。ぼくもだいぶ以前にファーストアルバムだけは買っていて、HALEAKALA KU HANOHANO(荘厳なハレアカラ)とか、LEI PIKAKE(ジャスミンのレイ)とか、気に入って何度も聴いていた。

日本でもかつて全国ツアーを挙行したことがあるようで、そのとき全国で出会った日本のフラ・ハラウの人たちを記念して作った「HAPA HULA MAI」というアルバムもある。ただ、収録されている曲は「名曲集」という感じで、このアルバムにしか入っていない曲というのは無いのだと思って気にも留めずにいた。(というか完全に忘れていた。)

それがつい先日、エギル・フセボさんというハワイ語の先生とランチをご一緒する機会があり、そこでフセボさんから「この曲知ってますかぁ?」と紹介されたのが、KU’U LEI ‘AWAPUHI(私の大切なジンジャー)という曲。これまたいい曲で、ファーストアルバムにも入っていたので知っていたはずなのだが、どうやらちょっと違うらしい。

上記の「HAPA HULA MAI」に収録されているこの曲には、ごく一部だが日本語の歌詞、しかも万葉集の和歌がうたわれているらしいのだ。
「小竹(ささ)の葉は  み山もさやに  さやげども
    我れは妹(いも)思う 別れ来ぬれば」
という歌詞がたしかに入っていた!

この歌、万葉集巻2で「柿本朝臣人麻呂石見国から妻に別れて上り来る時の歌」として収録されている長歌に対する反歌の1つだ。これだけだと、「へえ」で終わるのだが、実はこの万葉歌、ちょっといわくつきの歌でもある。

梅原猛氏の有名な著書の1つに「水底の歌 -柿本人麿論-」という本がある。ものすごく大ざっぱにいうと、定説を根底から覆し、『歌聖柿本人麿は藤原政権によって石見(今の島根県の西半分)に流罪になり、そこで死んだ』という大胆な主張を、綿密な推理で推し進めるという愉快な本だ。たしか大佛次郎賞も受賞している。そしてこの本の中でその歌を『わが国の文学史上において最も悲しい別れの歌』としているのだ。

定説によれば、この歌は都に帰任することになった人麿が現地妻との別れをロマンチックに歌ったというだけなのだが、梅原猛によればそうではない。それまで妻も帯同して石見に流刑になっていた人麿が遂に処刑されることになり、今生の別れの歌として詠んだ歌なのだという。

KU’U LEI ‘AWAPUHIは、別れの歌というよりは、すでに別れた人をジンジャーの香りを通じて偲んでいる歌なので、上記の万葉歌とはちょっと重さがアンバランスのような気もする。まあ、水底の歌を気にしなければさほどの違和感はないかもしれないのだが。

ちなみに、英語とハワイ語が混じった曲のことを「hapa haole song」(haoleとは白人のこと)というのだが、フセボさんはこの曲などは「hapa kepani」(kepaniとはjapaneseのハワイ語読み)と呼んでいいのではないかという主張だった。

宇宙じんをつかまえろ(準備編)

先日考えた宇宙じん(塵)捕獲計画。雨水と一緒に降ってくる宇宙塵を集めて観察すべく、ネットショップや100円ショップなどを回りながら道具を揃えてみた。

まずは顕微鏡。メーカーが色々あってよくわからなかったが、望遠鏡メーカーとしても聞いたことのあったCelestronのものに決定。照明は白色LED6個。映像素子が1.3MPとかなり低いが、言い換えれば1280×1024px。PCモニターで見るだけならこれで充分だ。内田洋行の理科カタログだと11,600円となっていたが、amazonだとなんと5,400円。並行輸入品なので安いらしい。購入後早速PCにつなぎ、「何を見ようか・・」と、つい自分の頭皮を見てしまい大後悔。とても自分の一部とは思えなかった。。。

そして集積装置のための諸々
2)特大漏斗。これはネットで探し回って「業務用厨房用品」の中に見つけた。直径18センチ。1個263円也。(ただし送料別)
3)ホースと長い棒。それぞれ100円ショップで購入。
4)集積瓶。「富士山麓の水」2Lペットボトルを利用。
5)その他。固定用の針金入りワイヤとか、漏斗を取り付けるための長めのボルトナット、さらにそのボルトを棒に通すための穴あけなど。これらはマイ工具箱から。

要するに顕微鏡以外ほとんど費用はかかっていない上、顕微鏡自体も格安で一式取りそろえることができてしまった。

さて、組み立てにかかってみる。最初は漏斗と長い棒との接続。「長い棒」というのはどうやら清掃用品(の一部)らしいのだが、どうやって何に使うものなのか不明(笑)。とにかく1mほどの柄の部分がプラスチックのようで防水性もありそうだったのだが、穴を空けてみて中身が竹であることが判明。軽いのにあまり「しならない」と思っていたらそういうことだったのか。とにかくこの接続部分は「木」と「金属」でいかにも雨に弱そうな感じがするので、接続後は『万能ボンド』をたっぷり振りかけて防錆・防腐措置。

漏斗とホース、ホースと集積瓶は、まるであつらえたようにぴったりはまった。まあ仮にはずれたとしても落下事故にはならない部分なのでここはそのまま使用。

次に、ベランダの手すりと集積装置の固定。いろいろ試行錯誤してみたが、結局ワイヤーでしばりつけるのがもっとも堅牢でかつ融通が利くという結論に。何重にも巻いた後、ここにも万能ボンドをふりかけて固定。

最後にホースの固定。これは念のための措置だが、長めの結束バンドで手すりに固定することで、大風が吹いてもペットボトルにホースの振動が伝わりにくくなったはず。工作と設置の所要時間は30分といったところ。

・・と、長々と説明しても文章だけで表現するには限界があるので下記がその画像。
IMAG0110

問題が1つだけ。気のせいかもしれないがここ1カ月ほど、雨らしい雨が降っていないのだ。このまま梅雨入りを気長に待つしかないかな。。