さくら通りと阪本町公園

数年前に気が付いたことがあるのだが、どうやらぼくは「木漏れ陽(こもれび)」というのが好きなようだ。なんかいいな、とか、ちょっと好き、という感じではなくて、いい感じの木漏れ陽さえあれば、「もう人生これでいいや(笑)」というほど幸福感でつつまれてしまう。ぼくの脳はなんて単純な仕組みなんだろう・・・

毎朝、茅場町で電車を降りると阪本町公園という小さな公園で一服し、その後おもむろにさくら通りに面した事務所に出勤、というのが日々の行動パターンなのだが、この坂本町公園もさくら通りも、じつに木漏れ陽が綺麗なのだ。

もちろん、気持ちよく晴れた日というのはそうそう毎日は続かないわけで、1年の3分の1くらいは、幸福な気分につつまれて出勤し、残りの日はちょっと残念な気分で仕事を始めるということになる。(冬の間は桜は葉を落としてしまって木漏れ陽にはならないのだが、そのかわり、澄んだ青空がとても高いところに広がることが多く、それはそれで好ましい。)

というわけで、もしも私にお願いごとをしたいかたがいれば、東京都中央区あたりが気持ちよく晴れた日の朝、ご連絡をいただけると大変に機嫌よく引き受けさせていただきます。(^^)

さくら通りの風景 坂本町公園の朝
さくら通りの風景 坂本町公園の朝

レヴィ・ストロース『神話論理』の森へ

(私には)難解だった「神話論理」に、ガイドブックとしての本書があることを知り、さっそく読んでみた。

7人くらいの「有識者」の人たちが、それぞれの立場で、レヴィ・ストロースについて色々と語っている。

しかし、ガイドブックとして、「ほほぅ、そういうことだったのか」という思いで読めたのは、中沢新一による解説だけであった。この解説は非常に明晰で、神話論理の中でハードルが高いなと感じられていた様々な定式化が、この解説で一気にわかりやすくなる。そうか、群論の考え方だったのか、など。

ところが、他の人たちの解説?は、神話論理と正面から向き合ったものは1つもない。せいぜい「感想文」といえる程度のものばかりで、大半は、レヴィストロースではなく、自分のフィールドでいろんな話を語っているだけ。それらを読んだからといって「神話論理」が読みやすくなるわけでは全くない。

渡辺公三(多分、大物?)によるレヴィストロースへのインタビュー記事もあるが、読んでいてちょっと痛々しくなるような記述。頑迷で自説を曲げない「痛い」学生が、必死で先生に食い下がっては「それは違うよ」と何度もあしらわれているような感じ。

あの池澤夏樹も解説を寄せているというので期待して読んだのだが、彼に至っては、実は神話論理をほとんど読まずに書いたのではないかと思ってしまうほど。「結局はデカルトを受け入れるかどうかだ」というのは、あまりにも飛躍しすぎではなかろうか。「一を聞いて十を知る」というと格好いいが、「一しか聞いてないのに、十も二十も語っているのではないか」という疑いが濃厚。

とにかく、『神話論理』に真面目に取り組もうと思っているのであれば、中沢新一の記事以外は読んでもムダ。「レヴィストロース」の熱心なファンで、「レヴィストロースに関することなら何でも知りたい」という人にとっては
満足度7割くらいというのが、本書を読んでの感想。

ニッタカ、三越、科学博物館

ニッタカ(日本橋高島屋)と日本橋三越、上野の国立科学博物館の共通点は何か?

答はアンモナイト。それぞれ豪奢な大理石を建材として用いているため、大理石の中に埋め込まれたアンモナイトやベレムナイトの化石を見ることができるのだ。

(1)国立科学博物館
・・・博物館なので、わざわざ建材の中にアンモナイトを探さなくても、立派な展示品としてのアンモナイトを飽きるほど見ることができる。しかも日本館と地球館それぞれで、別の視点で展示しているという念の入れようだが、それはそれとして、下記が現物。日本館の階段の壁面にもあるようだが、写真の中央ホール2Fのものが一番わかりやすいようだ。

(2)日本橋三越
ここの化石は有名なので、店員に尋ねる人が多いのか、とうとう立派な展示品になってしまった(笑)。

(3)高島屋日本橋店
ここの化石も有名なのかな?貼り紙つき。

(4)東京メトロ三越前駅のB1通路
実はここの通路の埋蔵量や保存状態が圧巻。上記3か所全部足してもここにはかなわない。大理石に埋もれているアンモナイトを最初に偶然見つけたのは、関西に住んでいた時に難波のOCATでのことで、あそこのアンモナイトも見事なものが多かったが、数ではこちらの勝ちかも。

旅の図書館

意外と知名度の低い施設なのだが、ぼくのお気に入り図書館の1つ。東京駅に隣接した第2鉄鋼ビルという古いビルがあるのだが、その地下1階にある。(財)日本交通公社(JTBの親会社)の運営。

目立つ看板もないし、地下1階に入るには無愛想な鋼鉄の扉を開けないといけないので、普通に考えれば来る人を拒んでいるようにも思えるのだが、いったん足を踏み入れるとそこは楽園(笑)。

国内・海外のガイドブックや地図・紀行文などだけで3万冊以上の蔵書があるのだ。パンフレット類もたくさんあり、国や地域別に箱に入れられている。メジャーな国に旅行するにはわざわざここに足を運ぶ必要はないかもしれないが、あまり旅行者が多くなさそうな、キリバスとかトケラウとかビトケアン諸島とか(例が太平洋に偏っているかもしれない(笑))に行こうとする人には、とにかく、今の日本で入手できる情報が全部あるといっても過言ではない。

それに、旅行好きに加えて、飛行機好きの人にもこたえられないのは、国内外、数十種類の機内誌がここで読めること。機内誌というのは、基本、退屈しのぎのための雑誌ではあるのだが、時々、機内誌にしか掲載されないような面白い記事もあってなかなか捨てたものでは無い。また、値段が高くて個人で購入するにはかなりの勇気が必要なOAGの航空時刻表も完備しているので、複数の航空会社にまたがって小さな国々を巡るようなフライトプランを立てることもできる。

また、鉄分が多い人、特に乗り鉄や時刻表鉄にとっても垂涎の場所。歴史的にもなんと明治5年の時刻表から置いてあるらしい。
機内誌とかOAGの時刻表たち
データ:
開館時間:月曜~金曜の10:00~17:30
休館日:土日祝及び年末年始と棚卸期間
URL:http://www.jtb.or.jp/library/

サマータイム

以前、アメリカ西海岸からハワイに行った時の出来事。

時期はちょうどハロウィーン(10月31日)の前後で、ロサンゼルスはお祭りムード。そして、アメリカへの旅行者にとってハロウィーンと並んで重要なのは10月の最終日曜日をもって夏時間が終わることなのだ。

なぜ重要か?普通に滞在しているだけならば、夏時間終了とともに時計を(現地時刻に合わせているのであれば)1時間戻すだけの話。

ところが標準時をまたがって移動するような旅行者にとっては、元々書かれていた飛行機の出発・到着時刻というのが夏時間終了とともに変わるのか、あるいは自分の時計のほうを戻しておけば夏時間とか関係なしに、書かれた時刻どおりに読めばいいのか、ちょっとよくわからない。(未だによくわかっていない)

まあ、そんな状況の中でロサンゼルスからホノルルに移動。そのときはカウアイ島で1泊することにしており、カウアイ島で迎えた夏時間終了。根が周到な私なので(そう思っているのは私だけかもしれないが)、時計はきっちり1時間遅らせた。

翌日は再度ホノルルに向かう予定で、ホテルからカウアイ島のリフエ空港に向かうタクシーの中での会話。

運転手:「飛行機は何時?」
私:「午後2時だよ」
運転手:「はぁ?もう2時やで」
私:「何言ってるの。昨日でサマータイムが終わったやんか。そやから今は1時。ほれ」(と腕時計を示す)
運転手:「サマー・・・タイム??何それ?」
私:「は?サマータイムいうたら、夏の間だけ時計を進める例のアレやんか」
運転手」「あー、あれか、Daylight Saving Timeのことね!」
私:「(daylight・・・??そう言うのか?)そうそう、その事!」
運転手:「そやけどハワイにはそんなもんあれへんで」
私:「えっっっ???」

そう、ハワイは立派にアメリカの州でありながら、夏時間制度はなかったのだ。おまけにサマータイムというのは和製英語だったというのもこのとき初めて知った。そして当然、飛行機には乗り遅れ。カウンターでしどろもどろの言い訳をしていたところ、アロハ航空(当時)の優しい係員は、「OK、わかった、次の便に乗せてあげるよ」とのこと。何て素晴らしいサービス・・・

とにかく、カラダで覚えた英語。Daylight Saving Time。

※アロハ航空は2008年に破産。

マイレージプラスとワンパスのマイル統合★

昨年、ユナイテッド航空とコンチネンタル航空が経営統合し、「大」ユナイテッド航空になった。それぞれに10万マイル強のマイレージを持っているぼくとしては、マイレージ統合の行方を結構気にしていたのだが、本日、具体的なマイレージ統合手続きのメールが来た。
(ひょっとするともっと以前に来ていたのだが、『早くしろ』という催促だったのかもしれない(笑))

手続きは全てWebで可能で、UA→CO、CO→UAどちらでも可能だとのこと。

実際やってみると、「住所が違う」といわれてしまったが、居住地のCHIBAが、CITYなのかPREFECTUREなのか、それぞれのアカウントで解釈が異なっていたことによるようだ。

まあそれは速やかに解決して、実際に移行手続きを始めてみると、これが極めてスムーズで気持ち良い。ぼくは、なんとなく大が小を兼ねるような気がしてCO→UA向きに移行したのだが、部分移行も可能だったようで、移行するマイル数を入力すると(たぶん)ajaxで、みるみる残高が変わっていくのがわかる。

UA、COそれぞれに数百万人の会員を擁する巨大なマイレージシステムで、ぼくなんかは平会員だが、エリート会員制度もそれぞれ結構複雑だったと思う。それがこんなにオープンに、スムーズに手続きできたというのは、よほど優秀なシステム会社が担当したのだろうな・・・と、本当に感心してしまった。

ちなみに、ぼくは本当の意味でのコンチネンタル航空には一度も乗ったことが無い。太平洋方面に出かけるにあたって「コンチネンタル航空」はわりと良く利用するのだが、それは、元々「コンチネンタル・ミクロネシア航空」というか、さらにさかのぼれば「エアー・ミクロネシア」だったはずなのだ。

なので、ぼくの頭の中では、コンチネンタル航空のハブ空港はというと、行ったこともないヒューストンではなく、あくまでもグアム空港だったりする(笑)。

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後日談(2011.7.20)
せっかくマイレージプラスに統合したのに、なぜかワンパスのほうが予約が取りやすいということがわかり、何とかマイル配分を元に戻せないかと思ったら、いとも簡単に戻せてしまった。
何度でも好きなだけ配分できるとのこと。
ホントにすばらしいシステムだ。。

光と風と夢(中島敦:中島敦全集I収録)

「宝島」などで有名なR・L・スティーブンソン(以下RLS)がサモアで暮らしていたときの日記「ヴァイリマ・レターズ」に中島敦が要所要所で解説を加えて仕上げた作品。
かつてRLSが暮らしていたサモアの家は、現在、スティーブンソン博物館として公開されているほどの立派なもの。・・・という程度の知識はあり、そのため、我ながら偏見だとは思うが、RLSについては「途上国で君臨していた白人のブルジョワ」というイメージもあったのだが、この作品でかなりイメージが変わった。

———
RLSはもともと病弱で、南海の優しい気候が転地療養に良いだろうということでサモアに移り住んだのだが、19世紀末の当時はまだ植民地主義が残っていた時代で英米独の3カ国がサモアを牛耳り、搾取していた。

そんな中、サモアにもサモア人にも好感を持つRLSは積極的に現地に溶け込もうとするものの、そういう姿勢は白人の支配層から反感を買う。RLSは当時既に名の通った文学者であり、いわゆる名士でもあって現地の人たちからも「ツシタラ(語り部)の酋長」としての尊敬を集めたという。

従って、本人が意図したかどうかは別として「土人の味方で反政府派」というようなレッテルを貼られてしまうようなのだが、本人は、少なくとも作品中では、そのことをそんなに深刻視していないようにも見える。(もちろん、色々と東奔西走している様子ではあるものの)

さらに少し驚くのは、病弱で、何かというとすぐに喀血してしまうような自身の健康状態についても割と達観してしまっているようだ。むしろ、自分の作品の出来不出来や、これまでの半生を振り返っての内省的な苦悩、さらには多くの家族や使用人を養うための経済的な苦労のほうが本人にとっては深刻な問題だったように思える。

日記の随所に、サモアの美しい景観についての記述が出てくる。
「・・・色無き世界が忽ちにして、溢れるばかりの色彩に輝き出した。此処からは見えない、東の巌鼻の向うから陽が出たのだ。何という魔術だろう!今までの灰色の世界は、今や濡れ光るサフラン色、硫黄色、薔薇色、丁子色、朱色、土耳古玉色、オレンジ色、群青、菫色・・・金の花粉を漂わせた朝の空、森・・」
等など。

RLSの感性に大変に惹きつけられる作品。他の作品も読んでみたくなる。

HAWAII FIVE-O

24やプリズンブレイクなどと同じような海外TVドラマシリーズ。1968年から12年続いた人気番組だったが、そのリメイク版が2010年から始まって、日本でもAXNで観られるのでしょっちゅう観ている。

舞台はタイトルどおり全編、ハワイ。全作観たわけでは無いが、ストーリー自体は、まあ可も無し不可も無しといったところか。(なんだか上から目線だ・・)それでも夢中になってしまうのは、とにかく、撮影シーンがいちいち風光明媚なのだ。あんなところに行ってみたいなとか、住めたらいいなとか、ストーリーとはあまり関係ないところで目が釘付けになってしまう。ハワイ州観光局やハワイアン航空がスポンサーになっているのもうなずける。

ただ、風光明媚とはいえもちろん観光客目線での話ではなく、殺人事件やら何やら物騒な話がテーマの警察ドラマなので、観光客にはなじみの薄い場所がたくさん出てくるのも面白い。刑務所など警察関係の施設とか、事件が起きる場所なども、ワイパフとかカネオヘとか、the busのルートマップでしか見たことが無いような場所が多い。

ハワイに何度も行っていても、「クアロアビーチ」とか聞いてすぐには正確な場所が浮かばない人が多いためか、AXNが面白いサイトを提供している。その名も『HAWAII MANIA』↓
http://axn.co.jp/program/hawaii5-0/hawaiimania/

1話放送される都度、各話に関するクイズが掲載される。例えば第11話だと、「冒頭のフィッシングの舞台は?」というクイズで、3択の中から正解(クアロア・ビーチパーク)を選ぶと、地図がスクロールして該当の場所にピンが刺さり、解説が表示されるというもの。(どうやらGoogle Mapを細工しているらしい。Google Mapをこんな使い方ができるのか、という点でも一見の価値あり)

まあとにかく、観光地としてのハワイを再認識できるという意味でも、ハワイはなんだかんだいってもアメリカ合衆国の中の都会の1つだということを再認識できるという意味でも興味深いドラマ。今年(2011年)の9月からはシーズン2が始まるらしい。是非日本でも引き続き放映されることを希望(^^)。

ビショップ博物館

ハワイに行った際には必ずといってよいほど立ち寄るのがこの博物館。設立されたのは1889年だが、当時は別の場所にあったようで、現在の地にオープンしたのは1898年。それでも実に100年以上の歴史を持っている。

正式な名称はBernice Pauahi Bishop Museumという。設立したのはCharles Reed Bishopという白人だが、彼の妻がハワイの王族 Bernice Pauahi王女で、亡くなった妻を偲んで設立したというのが命名の由来。

ハワイの風土は西欧からの影響に対してあまり相性が良くなかったらしく、ハワイ王朝の王族たちは一部の例外を除いて皆驚くほど短命だった。(政権が短命という意味ではなく、文字通りの短命)。王家につながる人々が続々と亡くなっていく中、相続される財産は、不謹慎な書き方を許してもらうならばまるでLOTOのキャリーオーバーのように膨れ上がり、バーニス王女が最終的に相続した財産はハワイ全土の3分の1にも相当する量になっていたという。そんなバーニス自身も夫に先立ち、1884年に亡くなってしまう。

1884年と言えばハワイ王朝も末期。白人資産家たちがあの手この手で王家の力をそぎ取り、ハワイを実質的な植民地化しようと蠢動していた時期。夫リチャードは妻の残した超莫大な財産を背景に、王家へのつながりをもとにハワイアンの支持も獲得、そしてそもそも白人であるということから、財閥とも組んで、一躍ハワイ最大の実力者に上り詰め・・・たりはしなかったのだ。

日々行われる政治闘争には背を向け、莫大な財産はハワイ人子弟に高等教育を施すためのカメハメハ・スクールやプナホウ・スクール(どちらも現在でも名門校)の設立や、First Hawaiian Bankの設立、そして王家の財宝を大切に後世に残すとともに教育にも役立てるべく、妻の遺志をも汲んで博物館を設立するなど、最後のロイヤルファミリーの一員としての義務を全うしていったのだった。ハワイ王朝滅亡後も財閥と組むのをよしとせずにカリフォルニアに帰ってしまい、リチャード自身の没後は、遺言で遺骨はハワイに戻され、愛妻バーニスの隣に葬られたのだという。

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そんな上質の設立経緯を持つ博物館が素晴らしくないわけはないのだが、外観や内装もまた素晴らしい。100年以上の歴史を持つハワイアンホールは2009年に内部が改装されたものの、ハワイの火山岩による外装はそのままで、ハワイの青空に実によくマッチする。内装は全面豪華なコアウッドというのもそのまま。建築当時はさほど希少な樹木とはいえなかったのかもしれないが、現在同じものを作るとすると、これだけで気が遠くなるような費用になるはずだ。

肝心の展示品については、自然史博物館的な側面も持っているため、もっぱら地元の子供たちのための宇宙開発の歴史とか恐竜博といった類の、ニッポンジンから見ると「上野の博物館の勝ち」みたいな企画展も多いが、常設展示と、時折開催されるハワイの文化歴史に関する企画展は、それぞれさすがビショップ博物館とでもいうべきもの。ハワイのみならず環太平洋での作品や出土品が集結している。

あと、展示品とは違うのだが、個人的にとても気に入っているというか、気になっているのが、前庭や中庭に漂うなんともいえない空気。(これは言葉で書くのが難しい)。優しいような、張り詰めたような、とにかく1日中でもそこにいたいと思える不思議な空気が漂っている。いったいあれは何なのか・・?

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そして普段ぼくが何よりお世話になっているのが、「Bishop Museum Press」謹製の膨大な数の出版物。ハワイの歴史や文化に関する参考書の多くは、ここの出版物か、あるいはそれらを出典として書かれていたりするのだ。古くは19世紀末から数十年くらいかけて出された「Memoirs of Berinice Pauahi Bishop Museum of Polynesian Ethnology and Natural History」シリーズ。全12巻で各巻がまたいくつかの部数にわかれる膨大なもの。(多くのreprintも出されている。神話に関するFornander Collectionはvol.4~vol.6)また、現在でも延々と続いているのが「Bishop Museum Bulletins」のシリーズ。これまた300冊くらい出されている・・

・・と、このあたりは書き始めるときりがないのだが、あと、さすがアメリカの博物館ともいうべきは、Webで閲覧できる資料の膨大さ。「Ethnology Database」が公開されていてハワイ古来の楽器の写真と使い方、さらに音色まで!とか、ああ、やはり書ききれない。

ケネス・ブラウアー 「サタワル島へ、星の歌」

この本も何度となく読み返している本の1つ。「かくもちっぽけなヤップ」「島への回帰」、そして書名にもなっている「サタワル島へ、星の歌」の3編で構成されているが、ここで書くのは表題の話について。

サイパン島での、リノ・オロパイという、伝統航法を持つ一族の末裔へのインタビューを軸にして、スター・ナヴィゲイション(星や風、波のうねりを読んで太平洋を自在に航海する航海術)についての無数のエピソードを紹介している。

ぼく自身、ハワイの神話と伝説というサイトを運営していたりする事情もあって、太平洋各地の神話には少し詳しいつもりなのだが、神話というのは魅力的ではあるものの、どうしても、現代人のぼくたちからすると「絵空事」という印象をぬぐえない。

しかし、この本の主役ともいえるサタワル島やプルワット環礁の人々の暮らしや考え方は、まさに神話と現実をつなぐ鍵ともいえるのだ。

太平洋の雑な地図だと、サタワル島もプルワット環礁も見つけられないかもしれない。それぞれ、中央カロリン諸島に位置しており、行政区分でいうと、サタワル島はヤップの東端、プルワットはチュークの西端にあって、どうみても外界とは隔絶している。ところが、プルワットの男たちは20世紀の今でも、「ちょっとタバコを買いに(彼らは喫煙者らしい!)」千キロ離れたヤップ本島やグアム、サイパンまでカヌーで漕ぎ出していくらしいのだ。

1976年、ハワイアンルネッサンスの象徴的出来事ともいえる、ホクレア号での「ハワイ-タヒチ4千キロのスターナヴィゲイション」航路の復活にあたって、太平洋中から伝統航法のできる航海士が探し求められ、やっと見つかったのがサタワル島のマウ・ピアイルグだった。ピアイルグは見事に、それまで一度も行ったことのないタヒチに船を導いたのだが、彼の伝統航法の手法は乗組員たちからは迷信扱いされ、怒ったピアイルグはタヒチに着くなり「もう帰る」と、さっさと飛行機で帰ってしまったという。

サタワルでもプルワットでも、伝統航法は口承で伝えられる一族の秘儀ともいえるもののようで、航海士になれるのは、島の中でも才能を見出された一握りの若者だけなのだ。その若者にはなんと数年にわたって日夜、学習(夥しい数の航路を歌で覚える)と訓練が施されたのちに、やっと一人前の航海士になれるという。

その結果、どういうことができたのか。本書からエピソードを抜粋すると、

『彼らは、来たことも無いのにグアム島周辺のあらゆる水道を知っているし、もう存在しない島への航路さえ知ってるんだ。しかもその島がどうしてなくなってしまったのかを説明する神話まであるんだ』

『昔はタブーが良く守られていたからカヌーも宙を飛んだ。トビウオのようにね。落下して水面に触れるやいなやまた飛び上がる。今ではもうカヌーがそんなふうに飛ぶことはなくなった。やってはいけないことをたくさんやっているからね。』

『ある男はマグロを呼ぶ薬を作る。またある男は流木を引き寄せる薬を知っている。潮流の専門家や雷の専門家もいるが、もうそういった技術を使うこともない』

等々。

本書の最後で、ブラウアーがオロパイに「サタワルへの星の歌を歌ってくれないか」と頼むのだが、「歌えるけど、そうしないほうがいい。」と答えるオロパイの姿勢が、まるで滅び行く貴族を見ているようで何とも切ない。