CATVの某チャンネルで放映されているのを録画して、久しぶりにじっくりと観た。「久しぶりに」というのは、実は1994年の公開当時に観に行ったのだが、あまりにも気が滅入るシーンが延々と続くために2時間ほどで挫折して映画館を出てしまったという経験があるのだ。(上映時間は3時間強に及ぶ)
ホロコーストを描いた映画で、オスカー・シンドラーというドイツ人実業家が、結果として1,100人ものユダヤ人を救ったという物語だが、映画の出来栄えについて語りたいわけではなく、気になる登場人物について書いてみたい。
その人物とは、アーモン・ゲート。映画の中では残虐と腐敗の権化のように描かれているSS将校で収容所長だ。調べてみると、実際に残虐な人物であったらしく、強制労働とかでなく、面白半分でも500人以上のユダヤ人を射殺していたらしい。
金にも汚かったようで、ユダヤ人たちの財産を私有化していた上に、収容所長という立場を利用しての汚職にも枚挙にいとまが無いほどだ。もちろん彼は戦後すぐ、「非人道的な行為」という罪で処刑されている。
しかしオスカーはこのゲートを巧みに利用し、多額の金で買収することによって、移送されるはずだったユダヤ人たちを自分の工場に残したり、戦争末期、アウシュビッツへの移送命令が出ている中、映画の表題でもある「シンドラーのリスト」を作成して、多くの命を救うことができたのだ。
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アーモンが100%純粋な悪人であったとしたらどうか?恐らくはオスカーから多額の金を受け取った上で約束を履行せず、場合によってはオスカーまで逮捕させてしまうのではないだろうか?権力を持っている収容所長とはいえ、囚人(そういう表現だった)の一部を強制労働から除外して民間企業に委ねてしまうというのは、それなりにリスクがあったのではないか?あるいは逆にアーモンが生真面目な所長で、賄賂などをまるで受け付けない人物だったら、オスカーは1人のユダヤ人も救えなかったはずだ。
また、オスカーが、自分の誕生日を祝ってくれた従業員代表のユダヤ女性に深い感謝のキスをする、というシーンがある。オスカーはこのことが原因で、人種隔離法違反みたいな罪で逮捕収監されてしまうのだが、このとき、オスカーの側に立って警察と交渉し、釈放に導いたのがアーモンなのだ。まあもちろんそれは、「今後もオスカーから甘い汁を吸うため」という理由だと考えるのが妥当かもしれないが。
酔ったアーモンに、オスカーから『王とは慈悲を与えるものだ』と囁かれ、それまでちょっとしたミスで躊躇なく射殺していたユダヤ人を「許す」といって解放し、驚かれるシーンも出てくる。(長続きはしなかったようだが)
そういった、行動に表れた「あれ?」と思えるシーンではなく、心の動きが「あれ?」と思えたシーンもある。
東欧各地から真夏のクラクフに、ユダヤ人を貨車に満載した列車が到着してくる。貨車の小さな窓から、喉の渇きに耐えかねた人々からの「水を・・」という叫びが聞こえる。アーモン達SSはそれを見て笑っている。そこにオスカーが登場し、一緒になって笑いながらも「奴らに水をぶっかけてやろう」と提案し、自ら指揮を執ってホースでの放水を始める。ホースが短すぎることがわかり、列車も限りなく到着してくることがわかると、工場から200mのホースを運ばせ、兵士たちを酒や果物で買収しながら、継続して全列車に水をかけさせる。アーモンに限らず、その場にいた誰にとっても、これは「水をぶっかけて遊んでいる」のではなくて、渇いたユダヤ人たちに水を与えているのは明白だったはずなのだが、アーモンは止めようとはしない。このときの彼の心中はどうだったのか?
そして、豪奢な収容所長邸でメイドとして働かせていたヘレンというユダヤ女性。立場からすれば奴隷以下の扱いだったはずなのだが、彼はどうやらこの女性に淡い恋心を抱いてしまったようなのだ。彼女に対する暴力というのは、感情の裏返しではないのか?オスカーから、アウシュビッツからの救出のためのリストの最後に彼女の名前を記しているのを見せられた時、アーモンは「彼女は俺が故郷に連れ帰ってメイドにする。そういう行為が許されないなら、せめて苦痛が無いよう、後ろから頭を撃って殺す」と言うのだが、結果としては、ヘレンはオスカーのリストによって生き延びた1人になっている。
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もちろん、だからといってアーモンの罪が許されるわけでも軽減されるわけでもないし、ホロコーストが認められるわけでも勿論無い。(ちなみにぼくはホロコーストという言い方があまり好きではない。人々の心の中に巣食う人種差別意識に根差した、極めて人為的で残酷な政策が、ホロコーストというとなんだか自然現象のように聞こえてしまうのだ)。
とにかく、残虐SS将校アーモンが、シンドラーによるユダヤ人救済を知っていて黙認していた(ようにみえる)のは本当に金のためだけだったのか?というように彼の心中を追ってみるというのも、この映画の見方の1つではないかと思ったまで。